ひきこもりの稚拙な考察

社会に対して懐疑的な視点しか持ってない

道徳教育が無意味な件

「徳」とはなんぞや。

道を修めた人=私利私欲に基づかない善なる行為をする人であり、日本含め東アジアではこの「徳」や「道徳」教育が社会の根底にあるとされる。しかしこの「徳」というのはとてもフワフワしていて定まらない。果たして学校における道徳教育は役に立つのか?

 

そもそも、「徳」という概念そのものが一人歩きしている気がする。徳とは儒教的には「仁義礼智」を重んじることであるが、果たして我々人間が生きているこの複雑な社会をたった漢字4文字の抽象的普遍的な概念に昇華させること自体が不可能な話だ。

また、道徳を教わったとしても全くの無意味なことだ。例えば、犯罪を犯す人は「道徳」を身につけていないのではなく、やってはいけないと分かっていてあえて「道徳」を否定することで犯罪を犯しているわけ。

 

人間のあるべき姿を「徳」だとかいう形に凝縮させて継承させたところで大して意味はない。大事なのは道徳的に良くないとされることを「させないようにする制度設計」が必要なのである。

例えば、先の犯罪者の話だと、犯罪者が「なぜ犯罪を犯すのか」という根本的な部分に遡らなければならない。例えば犯罪の温床が貧困であれば、政府は貧困を是正させる具体的な制度設計をすればいい。

仁義礼智や徳といった抽象的概念を重んじるのではなく、現実社会の個別具体的な現象に目を向け、その根本を解決する具体的制度作りの方がよっぽど大切だ。

学校でも道徳教育を廃止し、現実社会の構造を読み解く教育を行ったほうがいいのではないか。