ひきこもりの稚拙な考察

社会に対して懐疑的な視点しか持ってない

何もしてこなかった件

なんで何もしてこなかったんだろう。
なんで言い訳ばかりしてきて何もしてこなかったんだろう。


なんで留学いかなかったんだろう。

留学に行きたいと思ってたのは去年の年末まで。それが年明けから鬱になり始めて急に行きたくなくたった。
果たして留学に行かずに自分は何をしたかったのだろう。春休み中に何をやりたかったんだろう。その先のことをどう考えていたんだろう。

あの時は本気で死ぬ気だったのかもしれない。本当に死にたかった。だから先のことなんてどうでもよかった。
なんで死にたかったんだろう。未来への不安だろうか。留学に行けたらなぁという感情はずっと心の中にあった。なのになんで鬱になってしまったんだろう。
鬱になったのではなく、鬱を作り出したのだろう。なぜ。それは、これまでも自分に言い訳を言い続け、何もやってこなかったことへの罪悪感が凄かったから。自己否定感が凄かったから。
自分は何も出来ないと悟っていた。それは何もしたくなかったから。だから留学に行く理由もなかった。明確な理由がないといけないと思ってた。実際にそうだけど、でも理由なんて作り上げればよかったじゃん。
なんでいかなかったんだろう。半年経った今の自分が、その時どう思うかとか、そういう事、先の事は考えてなかった。
だって、本気で死ぬ方法を考えてたんだもん。

循環論法の始まりだ。

なんで先の事考えないんだろう。昔からそう。棚を作る時も、説明書読まずに作り始めて壊したっけ。高校の部活でも、先の事考えなくて失敗した。


1つだけわかるのは、こういう事を考えている時って、何かから逃げたい時。

結局そう。自分は弱い。

そしてまた、自分が弱い事を言い訳にしてどんどん深みにはまってく。

 

そういえば、あんなに旅行が好きなのに、なんで春休み中バイトして貯めて行かなかったんだろう。
興味が示せなくなったのは、やっぱり鬱が原因かな。
でもその鬱は、さっきも言ったけど、自分が作り出したもの。

自分がこれまで言い訳し続けてたことへの罪悪感と自己否定感を"盾"にして、新しい事へ挑戦する事を避ける。それが続いて深みにはまってく。そして罪悪感と自己否定感が強まると同時に、心の弱さも増してゆく。それでまた罪悪感と自己否定感に苛まれる。気づけば鬱状態。死にたくなる。興味も示せなくなる。だから先のことも見通せなくなる。


まだ親に甘えてる。いつも親の顔ばかり気にして、そのくせ気にしてほしくって仕方ない。だから、どうにか暗い顔して迷惑かけてみて、何か打開策をくれることを期待してる。

留学行ってらっしゃい、お金あげるから。
旅行行ってらっしゃい、お金あげるから。
友達と遊んでらっしゃい、お金あげるから。

欲しい…欲しいって…欲しすぎるよその言葉。


どうせニートだよ。俺は。

あっ、またやっちまった。自分に言い訳作って努力しない道を見つけちゃった。

嬉しいな。幸せだよな。ずっと言い訳していられるんだから。ははっ


もし、こうして気持ちの整理をしていて、何か頑張った気になったのなら、マジでバカ。"どうせ"で検索してみ。本当の自分のクズさが見えてくるよ。

 

日本の政治がクソすぎる件

先の参議院選挙をみてて、日本の政治ってすごい内向きだなぁって思いました。

憲法改正の有無が争点になってたり、野党は特に公約も掲げず「我々は自民党を引き摺り下ろすので助けてください!」みたいな、物凄くちまちましたちっさい政治になってる。

 

改憲論争でクソだと思ったのは

改憲内容を問わず改憲そのものに対して批判している点

・国際政治の構図で日本を位置付けるような考え方ができておらず、改憲案の中でしか議論されてない点

憲法ってのは国の理想のあり方だったりを決めるものであって、時代とともに変化するのは当たり前です。例えばイギリスなんかは憲法は成文化されていなくて、慣例法に基づいて政治が行われている。日本は平和憲法だ!とかいってなかなか変えようとしない。というか日本人が誇りに思ってる憲法9条みたいな内容って、当たり前だけど他の国にもあります。。。

さらに憲法改正云々を掲げる野党も、批判する与党も、もっと国際政治の中で日本をどう位置付けるかという大きな構図で考える必要があると思う。

 

あと他にも、舛添さんの件について。

結論から言うと舛添さんは何も違法なことはしていません。しかも舛添さんは経歴的にもかなりの有力者なので、ちょっと金銭問題があったからって辞めさせるのはどうかと。(確認しておきますが、舛添さんは辞めたのではなくメディアによって辞めさせられたんですよ笑)

まぁ、でも良いんです。日本では実力よりも潔癖さが優先されますから。。。

 

今回の参院選は野党の惨敗です!しかも自民が優れているからとかじゃなくて、野党があまりにもクソ過ぎた。野党が育ってない状況じゃ日本の代議制民主主義は機能してないのと同然じゃないですか。

もっと与野党が競えるくらいの活発な民主主義になってほしいのと、大きな構図で政治を捉える力を養うこと。これが今の日本の課題です。

道徳教育が無意味な件

「徳」とはなんぞや。

道を修めた人=私利私欲に基づかない善なる行為をする人であり、日本含め東アジアではこの「徳」や「道徳」教育が社会の根底にあるとされる。しかしこの「徳」というのはとてもフワフワしていて定まらない。果たして学校における道徳教育は役に立つのか?

 

そもそも、「徳」という概念そのものが一人歩きしている気がする。徳とは儒教的には「仁義礼智」を重んじることであるが、果たして我々人間が生きているこの複雑な社会をたった漢字4文字の抽象的普遍的な概念に昇華させること自体が不可能な話だ。

また、道徳を教わったとしても全くの無意味なことだ。例えば、犯罪を犯す人は「道徳」を身につけていないのではなく、やってはいけないと分かっていてあえて「道徳」を否定することで犯罪を犯しているわけ。

 

人間のあるべき姿を「徳」だとかいう形に凝縮させて継承させたところで大して意味はない。大事なのは道徳的に良くないとされることを「させないようにする制度設計」が必要なのである。

例えば、先の犯罪者の話だと、犯罪者が「なぜ犯罪を犯すのか」という根本的な部分に遡らなければならない。例えば犯罪の温床が貧困であれば、政府は貧困を是正させる具体的な制度設計をすればいい。

仁義礼智や徳といった抽象的概念を重んじるのではなく、現実社会の個別具体的な現象に目を向け、その根本を解決する具体的制度作りの方がよっぽど大切だ。

学校でも道徳教育を廃止し、現実社会の構造を読み解く教育を行ったほうがいいのではないか。

 

福沢諭吉の思想が「危険」である件

福沢諭吉と言えば「脱亜論」を唱え、日本の近代化を推し進めたとして知られ、朝鮮の侵略論者としても認識されています。この福沢に関して、韓国と日本では待ったく違った認識がなされています。

 

朝鮮から見た福沢

福沢は儒教のような東アジアの伝統を否定しています。その福沢が19世紀末に唱えたのが「朝鮮改造論」です。当時朝鮮は清と宗属関係にあり、清に政治的にも文化的にも依存した状態でした。しかしそのような状態では国としての発展は期待できないため、福沢は朝鮮の内政に日本が介入し、黒船来航以来のアメリカが日本の改革を推し進めたように、日本が朝鮮を開化させるべきであると主張します。そして朝鮮の開化派である金玉均らにクーデターの支援をし、朝鮮改造の補助をしました。

一方で朝鮮側からすれば、福沢は朝鮮の伝統を否定し、さらにクーデターの支援者の一人として認識されています。そのため朝鮮の人たちは今でも福沢に対して良い印象を持っていません。

 

福沢の思想

福沢が朝鮮改造論を唱えるようになった背景には、「義侠心」と「文明主義」があります。「義侠心」とは優れた者が弱いものに対して行う補助、すなわち朝鮮に対する文明化の推進です。「文明主義」とは、相手国の文化を重んじてそれに適した形で文明化を推し進めるという考えです。相手の文明の程度に合わせて改革を推し進めて行くという発想ですから、いかにも柔軟でリベラルな感じがします。しかしこの福沢の思想は、ある意味とても危険な発想といえます。

「義侠心」の発想は、アジア全体に文明化をもたらそうとする「アジア主義」に行きつきます。とてもロマンのある思想に見えますね。しかし「文明主義」の観点からすると、日本の文明の方が当時は東アジア(とりわけ日清朝)の中でも抜きんでているため、日本が東アジアの文明化を推し進める「植民地主義」にたどり着きます。このアジア主義植民地主義が重なるとき、それは日本のやり方を押し付ける「同化主義」の発想を生み出すのです。

これはアメリカの中東への介入にも当てはまります。アメリカは「人道主義」という義侠心と「民主化」という文明主義の観点から中東に介入してきました。しかしその結果としてイラク戦争やシリアでの内戦など、数々の泥沼化した戦争を起こしてきたではないですか。

 

福沢は一体何を間違えていたのか。それは福沢が自身の思想がはらむ危険性について認識していなかったことだと思います。

 

今週のお題「わたしの本棚」

はてなブログから提供されるお題に沿って書くことなどなかなか無いですが、今日は特に書くこともないし眠たいのでこのお題に頼ってみたいと思います。といっても、お題が余りに私的、内的な話に終着しそうですな。

とはいえ、ブログに大事なのは「書くこと」「発散すること」なのですから、例え読者がいなかろうと内容がどうであろうとそんなことどうでもええのです。書けばいいのです。

 

さて、私の本棚ですが、政治学専攻ということもあって政治学系の本が目立ちます。あとは基本的にリベラルアーツを重んじているので経済、社会学、心理学、哲学、経営学、リーダーシップ、自己啓発等々様々な本があります。

本を買う基準ですが、基準は設けません。面白そう!と思ったら買う。それが一番いいです。本当のリベラルアーツを身につけたければ選りすぐりしているのではダメ。一見意味のなさそうな学問に大きなヒントが隠れているものです。

 

ということで、私の本棚の中身についてでした。本当にしょうもない。

 

 

複雑なことを複雑に捉える

国際政治を勉強なさってる方はわかると思いますが、ポリティクスの力学を説明する際は「簡潔生」が求められます。(参考:ケネス・ウォルツ)

 

でも、複雑な事象を複雑に捉えることってすごく大事だと思う。

 

例えば、イギリスのEU離脱に関する国内世論。

離脱派は移民によって職が奪われているとか、イギリスの独自性の尊重を訴えていました。でもこれって、そんな簡単な話じゃないと思う。

 

よく考えてみてください。EU離脱によってもし関税特権が無くなったら、イギリスに拠点を持つ外資系企業は本土側に移りますよね。そうするとイギリス国内の工場などもどんどん撤退していく。とすれば、結果的に雇用にマイナスな面があるのではないかともなさ考えられます。

離脱派の多くは移民と職を奪い合うような低所得者たち。そこまで学問に通じてない人たちです。彼らを巧みなレトリックで離脱に導くのは簡単でしょう。

 

世の中の仕組みは離脱派が唱えるような簡単な理論には収まりません。複雑な事象を複雑に捉えられるだけの高度な思考力は大事です。

 

----------------------------------------------------------------

これは東アジアの歴史認識などにも当てはまります。「韓国は日本に占領されたから、酷いことをされたから反日なのだ」みたいな表面的な話は聞き飽きました。

これに関しても近々書きます。

 

偽善でいい。ただし善人ぶるな。

はっきり思っていることを言います。

学生でボランティアに参加する人たちは偽善活動家です。しかし問題なのはそれを隠して善人ぶっいること。

 

でもいいんです。偽善活動で助かっている人たちがいるのは事実だから。

 

ただ私が言いたいのは、ボランティアした人たちがよく掲げる動機として「誰かの役に立ちたいから」というのは完全な嘘であり、そんな嘘つくなってことです。

 

正直に言えばいいじゃないですか、自己成長と自己満足のためだって。

 

参考までにこちらのブログを見て頂くといいでしょう。

 

ボランティアに参加するメリットはたくさんあります!!

ただし動機としては自分のためというのが正直な結論でしょう。

 

偽善活動としてのボランティアは素晴らしいと思いますが、それを「誰かの役に立ちたいから」と嘘つくのは良くないよ。

 

やめましょう、善人ぶるのは。はっきり言えばいいじゃないですか。

完全に自己成長のためにボランティアに参加しましたが、それでも誰かの役に立っていますと。